
知らなきゃヤバい!?ギャンブルにまつわる衝撃事実6つ
カジノ必勝法でオンカジを攻略! マーチンゲール法の賭け方マニュアルを大公開!
ギャンブルに関するびっくりするような事実を知りたくありませんか? ここでいくつかご紹介していきます。
- 19世紀に世界初のスロットマシンが登場する前まで、ギャンブルマシンは主に「酒場」で利用されていました。初期のギャンブルゲームでは、ポーカーをベースにした50枚のカードが使われていました。
また、初期のマシンには、直接支払いの仕組みがなかったため、勝ったプレイヤーはバーテンダーから葉巻や飲み物で報酬を得ていたとか。驚きですね。
- 「no dice」という表現に聞き覚えはありますか?この英語表現は、20世紀初頭のアメリカで使われた言葉です。
当時、多くの地域でギャンブルが禁止されていたため、クラップスのプレイヤーは、警察の目を逃れて地下にゲームを持ち込んでいました。警察の手入れの際に、サイコロを飲み込んで証拠を隠し、逮捕を免れるというのがよくあったようです。サイコロという賭博の証拠がなければ、裁判所は誰も裁くことができないのでした。
「no dice, no conviction(ダイス無ければ罪も無し)」という評決が、この有名な表現の起源となったのかもしれませんね。
- 1860年代、名門ブラン家がモナコにモンテカルロ・カジノを建設し、ヨーロッパの王族たちの賭博場となり、ルーレットが一番人気のゲームとなりました。
「モンテカルロの魔術師」と呼ばれたオーナーのフランソワ・ブランは、ルーレットの秘密を知るために、悪魔と契約したという言い伝えがあります。
ルーレットの1から36までの数字の合計は、666という「獣の数字」になるという伝説があります。そのため「悪魔のゲーム」と呼ばれています。
- 世界最古のカジノゲームである「キノ」は、2000年以上前の古代中国で生まれました。
文献によると、紀元前205年から187年まで続いた漢王朝時代、戦乱の地では、軍隊への支払いが大きな負担となっており、人々は戦費の支払いを拒むような事態に…。そこで、張良という人物が考案したのがキノであり、これが大成功を収めました。
意外にも、このゲームは当時からあまり変わっていません。最初のバージョンは、現在のキノと同じように、80個の選択肢から選ぶスタイルでした。現代では、80個の数字から選ぶのに対し、当時は、古典である周興嗣の詩『千字文』をもとに80個の漢字から選んでいました。
また当時は、道路が整備されていなかったため、村から村へ伝書鳩で結果を送ったことから「白鳩ゲーム」とも呼ばれていたそうです。
- トランプは何世紀も前から存在していましたが、現代のトランプに見られる4つのマークとデザインは、フランス人によるものであると言われています。
トランプの4つのマークは、フランスの社会階層を表しているのです。クラブは「農民」を表し、勤勉に働くことで得られる達成感も表しています。
ダイヤは「商人」を象徴し、富の創造に努めます。ハートは「聖職者」を表し、神の心の平安の探求を示しています。
スペードは、もともとフランス語でピケ(piqué)またはパイク(pike)と呼ばれていたもので、「王政」を意味します。また、かりそめの社会の秩序を維持するために使用された、長く尖った武器を表しています。
- 1887年、チャールズ・フェイという自動車整備士が、初めて本格的なスロットマシンを完成させました。
自動車の修理を終えるのを待つ間、顧客が退屈していることに気づいたフェイは、3つのリールと5つのマーク(蹄鉄、ダイヤ、スペード、ハート、そしてマシンの名前でもある自由の鐘)を備えたマシンを作りました。
このマシンを更に改良し、マークを50個から5個に減らすことで、自動払い出しの仕組みを実現したのでした。このスロットマシン「リバティ・ベル(自由の鐘)」では、3つのベルが並べば、最高額の10ニッケル(50セント)が支払われていたそうです。

ますます目が離せない「ゲーミング業界」
ゲーム業界は今や、世界的にみても、非常に大きな業界です。数十億ドル規模の業界であり、現在でもなお急速に拡大しています。
任天堂やソニーといった大企業は、家庭用ゲーム機からニンテンドー3DSのような携帯型ゲーム機に注力し始めており、サイバーエージェントやDeNAのモバゲーのような、モバイルゲームプラットフォームも近年登場しています。
2014年、日本国内ゲーム市場は9600億円という過去最高を記録しましたが、そのうち携帯ゲーム機は5800億円を占めています。
ギャンブルゲームを除けば、日本は米国に次ぐ世界第2位のゲーム市場であり、『パックマン』『スーパーマリオ』『ファイナルファンタジー』などの代表的なゲーム作品を生み出しながら、長きにわたって、ゲーム業界の最先端を走ってきました。
また、テクノロジーへのこだわりによって、目まぐるしく進化するゲームをプレイするために必要な機器が、次々と生み出されていきました。世界的には、マイクロソフトがコンピュータ業界を独占支配していますが、日本国内では任天堂やソニーのゲーム機に比べて、Xboxはまだマイナーな存在です。
ゲームビジネスは、ここ10年間のインターネットとブロードバンド接続の普及によって、さらなる活性化がみられました。インターネットのおかげで、有名ゲームを中心としたバーチャルコミュニティが形成されました。
また、アマチュアクリエイターが作品を共有する手段も生まれ、ゲームはますますオンラインで行われるようになっています。プレイヤーはたとえ地球の裏側にいても、バーチャル世界で競争したり、協力したりすることができます。
韓国では、MMORPG(大規模多人数同時参加型RPG)が爆発的な人気を博し、人気作品に至っては数百万人のプレイヤーを魅了しています。ゲーム評論家によると、今の若者にとってのゲームは、1960年代の若者にとってのロックンロールのようなものだ、とみなされています。
一方、競馬、競艇、競輪、そしてパチンコや麻雀など、すべてが賭博の対象となり得ます。また、宝くじのように、国や地方自治体が運営する人気の高いくじもあります。
しかし、橋下徹を含め、複数の政治家らがカジノを合法化しようとしては、いずれも失敗しており、インターネットカジノで遊びたい人は、イギリスなど海外のサイトを利用しなければなりません。
スポーツでギャンブルをしたい場合、競馬や競艇など、選択肢はいくつかありますが、欧米諸国のようなノミ屋はありません。もちろん、インターネットの普及により「BetinJapan.com」のようなオンラインでのギャンブルも可能になりました。
ゲーム業界はゲームセンターから始まり、ビリヤード台、ペニー・ドロップ、スロットマシンなどの競合がいました。最初のコイン式コンピューターアーケードゲームは、1970年代半ばに発売されましたが、1971年に登場した『ポン』が第一号でした。
こうしてゲームは、1980年代までに大きな社会現象となり、多くの人達が『スペースインベーダー』(1978年)、『パックマン』(1980年)、『ドンキーコング』(1981年)といったアーケードの名作ゲームで腕を磨きました。
1980年代半ばには、欧米のゲームセンターは影を潜め、1983年には「テレビゲーム崩壊」とまで言われていました。しかし1990年代初めに、『ストリートファイター』のような2人対戦型の格闘ゲームが成功したことで、再び脚光を浴びることに。
ところが、ゲームの暴力性が悪影響をもたらすという理由から、今度は非難を浴びることになったのです。この時期、スクウェアとエニックス(2003年に合併してスクウェア・エニックスとなった)から、いくつかのゲーム作品が発売され、『ファイナルファンタジー』『ドラゴンクエスト』『トゥームレイダー』などの大規模なシリーズが誕生しました。

業界トップの5大ゲーム会社
任天堂
任天堂は、京都に本社を置く世界最大かつ最古のゲーム会社です。1889年、手作りの花札を作るために設立されました。
20世紀半ばには、ラブホテルやタクシーサービスなどさまざまな小規模専門事業に挑戦した後、ゲーム業界最大手のコングロマリットへと成長。ゲームだけでなく、シアトル・マリナーズのマジョリティ・オーナーでもあります。
スクウェア・エニックス
スクウェア・エニックスは、2003年に競合他社の株式会社スクウェアと株式会社エニックスが合併して誕生した会社。
1987年に始まったスクウェアの『ファイナルファンタジー』シリーズは、史上最も広く流通しているゲームシリーズとなっています。同シリーズは、家庭用ゲーム機とポータブルゲーム機をはじめ、多人数同時参加型オンラインロールプレイングゲーム、携帯電話用ゲーム、3つのアニメシリーズ、2つの長編CGI映画などにまで、ヒットを収めています。
技術的には自信はあったものの、映画は商業的には失敗に終わり、これがエニックスとの合併の一因となりました。
セガ
セガは『フロッガー』や『ザクソン』など、超人気アーケードゲームを生み出し、家庭用ゲーム機の「メガドライブ」「セガサターン」「ドリームキャスト」で大成功を収めました。
しかし、1990年代の激戦で任天堂とソニーに敗れた後は撤退し、数多くのプラットフォーム向けのソフトウェア開発に注力しました。
なお創業は、1940年に3人のアメリカ人がハワイで設立したスタンダード・ゲームズという会社から始まり、1951年に東京に移転。1965年の合併を経て、「SErvice GAmes of Japan(サービスゲームズジャパン) 」を語源とする現在の社名になりました。
バンダイナムコ
ナムコは1955年に東京で、市販の子供向けおもちゃの製造会社としてスタートしました。1972年には現在のブランド名を確立し、1974年にはアタリ社の日本支社を買収して、コインゲーム業界に参入しました。
岩谷徹が考案した『パックマン』は、1980年に同社を代表するコイン式アーケードゲームの一つとなり、その後、『ギャラクシアン』を皮切りに、ナムコは家庭用ゲーム機「ファミコン」向けのゲームを開発するようになりました。『たまごっち』『ソウルキャリバー』『鉄拳』などがその代表格です。
やがて、ナムコとバンダイは2005年9月に合併し、「バンダイナムコホールディングス」となりました。ゲームだけでなく、おもちゃ、ゲームセンター、アニメ、遊園地なども同社の得意分野となっています。
コナミ
コナミは、幅広い人気を誇るコンピュータゲームおよびテレビゲームの製造・販売会社として知られています。2005年時点では、日本で第4位のゲーム開発会社となっています。
現在の会長兼CEOである上月景正は、1969年に大阪でジュークボックスのレンタルと修理の事業を始めました。仲真良信、松田拡、石原祥吉は、上月が集めたビジネスパートナーであり、1973年にコナミ工業株式会社を設立した当初の創業者達です。
「コナミ」という言葉は彼らの名前を組み合わせたものです。ちなみに「小波」はコナミの別名です。コナミは東京に本社を置き、国内ではフィットネスセンターの所有および運営も行っています。
『ダンス・ダンス・レボリューション』『ウイニングイレブン』『ときめきメモリアル』『メタルギア』『サイレントヒル』『遊戯王』などが同社の人気ゲーム作です。

女性だけの舞台「宝塚歌劇団」の魅力に迫る!
初めて宝塚歌劇団のファンを目にした時は、あまりにも衝撃的で、今でも鮮明に覚えています。
雨の中、東京・日比谷の劇場街の裏通りを歩いていると、何百人もの傘を持った人たちが集まる、ざわざわとした光景が目に飛び込んできました。
「デパートのセール?」「ハリウッドセレブが来ている?」「政治団体?」と疑問に思い、その場で尋ねると、演劇俳優が劇場から出でくるのを待っているのだと…。
俳優さんは聞いたことのない名前でしたし、出待ち集団の全員が女性だったので、きっと若くてカッコよくて男らしいスターなのだろうと思っていました。ところが実際に出てきたのは、たしかに若くてカッコよかったのですが、なんと女性でした!
女性だけで構成される「宝塚歌劇団」は、日本人の心の奥底にある何か、少なくとも女性的な部分に触れているのでしょう。これほどまでに熱狂的なファンがいるのですから。
なんとファンの9割は女性で、25歳以下が大半を占めています。彼女たちのイチオシは、男性を演じる「男役」女優です。
男女平等が叫ばれて久しい男尊女卑の社会の中で、男役は、若い女性たちが強さや力をなんとか見出して生きていくためのモデルとなっています。しかしファンが本当にハマっているのは、古き良き、純粋なおとぎ話のようなロマンスストーリーなのです。
そのため宝塚では、ロマンスとスペクタクルに満ちていながらも、下品さや激しさのないストーリーを上演しています。ちょうど、ディズニーの美化されたラブストーリーと似たような感じですね。
宝塚は、数百人の劇団メンバーで構成され、国内外で年間を通して、公演を行っています。宝塚音楽学校には、毎年多くの若い女性が応募しますが、40〜50人の新入生しか受け入れていません。
幸運にも合格した生徒は、2年間の厳しい修養と訓練を受けることになります。後輩生徒は学校の廊下を歩く際、出会った先輩にお辞儀し挨拶をしなければならない、という厳しい校則もあります。また、演技、歌、ダンス、音楽、演劇史などの授業に加えて、定期的に寮や教室の掃除も行います。
掃除はモップやたわし、歯ブラシなどを使って手作業で行われ、先輩はちゃんとできているかをチェックします。生徒は1年間指導を受けた後、「男役」と「娘役(女役)」のどちらかを希望します。ここでも身長・体格・歌声が審査される、激しい競争が待っています。訓練を終え卒業した生徒は、いずれかの劇団に所属することになるのです。
宝塚には、もともと5つの組がありました。「花」「月」「星」「雪」「専科」でしたが、1998年には「宙(そら)」が加わりました。各組には、約80名のタカラジェンヌが所属し、男役・女役それぞれのリーダーがいます。
専科は40歳以上のメンバーを対象に設立され、次第に組間を行き来する女優の拠点になっていきました。毎年、各組は兵庫の宝塚と東京の2箇所で公演を行います。

世界に誇る!アバンギャルドな日本人ファッションデザイナー3名
1.山本耀司 – Yohji Yamamoto
山本耀司は、西洋の技術と美学を再構築した、革新的な日本人ファッションデザイナー。ファッションスクールに通えなかったファッション好きの方も、まだ望みを捨てないでください。1980年代のジャパニーズ・ニューウェーブの先駆者である山本耀司も、大学では法律を学んでいたというのですから。
現在、ファッション業界で最も有名なデザイナーの一人となっている山本耀司は、「黒」を多用することで有名です。また、体を見せるのではなく、隠すという考えに基づく中性的なデザインや、巧なテーラリングに反映された自由奔放な作風で知られています。
彼の作品を一目見れば分かりますが、黒を多用しています。私は子供の頃、「黒は色とは言えない悲惨な色だ。」と聞かされていましたが、山本耀司は、「黒はまさにすべての色相の混合物である」と説明し、黒に光を与えてくれたといえますね。
2.三宅一生 – Issey Miyake
プリーツの達人・三宅一生は、フランスで初めて作品が展示された数少ない日本人ファッションデザイナー。イヴ・サンローラン、ココ・シャネル、クリスチャン・ディオールといった西洋のデザイナーの典型的なアプローチとは対照的に、彼はサルトリアの伝統を再構築した第一人者でした。
タイトなシルエットで体のラインを強調する、という西洋の女性服の理想に合わせるのではなく、大胆にも従来のデザインを排除した、ルーズでぶかぶかなデザインを生み出しました。
三宅の感性は、同僚である山本耀司と同様、日本の伝統的なデザイン哲学に深く根ざしており、それはすべての作品に見られます。三宅はそれをファッション性の高いアイテムに変換してきました。
三宅は西洋のバックグラウンドを持たないことを、マイナスになるどころかむしろ強みになると考えました。工芸品を生活に応用することで、衣服が身体とともに動くという新しい美意識を生み出したのです。
三宅の引退後も、彼の会社はユーザーを第一に考え、独自の方法で服作りに取り組んできた歴史を引き継いでいます。考えてみればそのアプローチは、ファッションデザイナーというよりもプロダクトデザイナーのそれに近いものがあり、間違いなく成功しています。
3.川久保玲 – Rei Kawakubo
コム・デ・ギャルソンの創始者である川久保玲もまた、有名な日本人ファッションデザイナーの一人です。彼女は以前、「革命を起こすつもりはなかった」と述べていました。そう言いながらも実際には起こしましたが、後悔はなかったそう。川久保のファッション美学は、「単色」「非対称」「ボリューム感」という3つの言葉に集約されます。
そう、川久保のデザインは、三宅一生のデザインに似ています。どう見ても不完全なカットと非対称のラインを強調している点や、ドラマチックな黒の使い方などがそうです。
日本独特のアバンギャルドな美学をより一貫したものにするために、彼女がこの3つの分野を統合したと言えるかもしれませんが、まだ開拓の余地のある分野といえるでしょう。
川久保は大学で美術を専攻していたため、コム・デ・ギャルソンでは、変わった形の生地や、布地をふんだんに使った、独創的なテーマに基づく服を展開しました。これにより女性は、「ある種の男性のように」見えるようになっており、それが同ブランドのテーマにもなっているのです。